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須磨寺 松尾芭蕉句碑

今回は、以前現光寺でもご紹介した、誰もが一度は耳にしたことの有る詩人、芭蕉の石碑をご紹介します。
須磨寺にもまた、芭蕉の石碑が建てられています。

現光寺の芭蕉の石碑はこちら≫

芭蕉句須磨寺や
     吹かぬ笛聞く
           木下闇

解釈:須磨寺の木下闇にとどまっていると、吹いてもいないのに笛の音が聞こえるかのような錯覚に囚われる。


吹かぬ笛というのは須磨で有名な「敦盛」の愛品である青葉の笛だと言われています。「敦盛」の名残を多く残す須磨寺で芭蕉は敦盛が吹く笛の音を聞いたのかもしれません。

平敦盛についてくわしくはこちら≫

この句で歌われている「青葉の笛」以外にも、平敦盛と熊谷直実の像や首塚等、「敦盛」に関するものが多く残されている須磨寺に一度足を運んでみて下さい。

須磨寺 植櫻記碑(神田兵右衛門句碑)

皆さんは須磨寺に「新吉野」と呼ばれる桜の名所があったことをご存知でしょうか?

現在の桜の名所と言えば須磨浦公園ですが、昔の須磨の桜の名所と言えば須磨寺でした。
今回はそんな須磨の桜に関する句碑をご紹介します。

■植櫻記碑(神田兵右衛門句碑)
場所は須磨寺の源平の庭の前にある若木の櫻の前です。この句碑は植櫻記碑と呼ばれ、一番左手には神田松雪(神田兵右衛門)の俳句が記されています。
   花千母登
     昔稚木乃
        さくら哉


明治24年に建立された句碑ですが、当時須磨寺は度重なる天災や人災により多大な被害を受け、著しく荒廃していました。
当時の住職が須磨の境内へ民を迎える工夫をすることを決意し、神田兵右衛門へ助けを求めました。その際「作楽帳」という寄付帳をつくり一人一本桜の若木の寄付を行ない、結果千本もの桜が須磨寺に集まり、「新吉野」とまで言われる桜の名所が誕生しました。

その後、須磨寺には数多くの人が集まり、須磨寺付近も大いに発展が進んだとされています。

また、神田兵右衛門は兵隊の編成や運河の築造、水道の布設などの功績を持ち、神戸市の初代市会議長を努めた人物としても有名です。

現在の須磨寺にも桜は多く残っており、ゆったりとした自然の中で春を感じることができる場所ですので、是非、桜の季節になった際は須磨の歴史も感じることが出来る須磨寺へ訪れてみてはいかがでしょうか?


須磨寺 子規句碑

今回は須磨寺に建てられている正岡子規の句碑を紹介します。
須磨には子規の句碑が幾つかあり、以前このブログでも現光寺にある子規の句碑をご紹介しました。


日清戦争が勃発した1894年、近衛師団つきの従軍帰社として遼東半島に渡った子規は、同年5月に帰国しました。その船中で喀血して重体に陥り、神戸病院に入院、7月には須磨保養院で1ヶ月の療養をとることになります。須磨に残されている句碑はその時子規が詠んだものです。



暁や         
 白帆過ぎ行く
         蚊帳の外


この句は、暁の海、澄み切った空気の中を行く帆の白が鮮明だ、という意味です。
須磨保養院での療養生活は楽しかったらしく、不治の病にかかっていながらも明るく文学への熱い思いに満ちていました。須磨寺へもよく足を運んでおり、それを知っていた子規の弟子が33年忌に須磨寺の仁王門をくぐってすぐ左に建てたと言われています。

須磨で過ごした約一ヶ月という短い時の中で須磨に関する句を詠み、今も語り継がれている子規。
子規が好きな人、須磨を訪れた際には是非、須磨寺を訪れてみて下さい。
子規の思いを感じることができるかもしれません。

山本周五郎文学碑

今回は、映画やテレビドラマだけでなく、舞台、オペラ、漫画など様々な方面で題材にされる作品を書いた小説家、山本周五郎さんの石碑を紹介いたします。

山本周五郎さんで須磨、と言えば彼の処女作である「須磨寺附近」です。
これは青木という友人を頼って神戸に来た青年、清三がそこで出会った年上の女性、康子に淡い恋心を抱く心情が綴られた作品です。

須磨寺を舞台に、山本周五郎さんが感じた女性の謎、そして「生きる目的」という山本文学の大きなテーマとなるキーワードがこの作品で生まれました。

須磨浦をよく知っている方ならば尚更、興味を持っている方に是非読んでいただきたい作品です。
また、この作品は山本さんが関東大震災で東京の自宅を失った際、旧友を頼り須磨へと5ヶ月滞在していたという実体験をもとに描かれたと言われています。

そんな作品の舞台となった須磨寺には山本周五郎さんの石碑も建てられています。

山寺周五郎碑

「須磨は秋であった」
(処女作『須磨寺附近』から)

「貧困と病気と絶望に
  沈んでゐる人たちのために」



表面には「須磨寺附近」の一節を、裏の言葉は読者への遺言とされる文が刻まれており、彼の作品には裏面にある通り「貧困と病気と絶望に沈んでいる人たちのために幸ひと安息の恵まれるように」という想いが込められています。

山本周五郎さんのファンの方や、現代でも愛されている山本周五郎さんの作品に興味を持った方は是非一度、須磨寺にある石碑を訪ねてみてはいかがでしょうか?

音楽碑

今回は、須磨寺に多く存在する石碑の一つ、平敦盛の遺愛の笛「青葉の笛」に関する石碑をご紹介します。

平敦盛とは、一ノ谷の戦いの最中に命を落とした武将の一人です。まだ17歳と若く、一ノ谷の戦いに参加した敦盛はその戦いの終盤、平家が敗退しようとした時に熊谷次郎直実により首を切られ、命を落としてしまいました。

平敦盛について詳しくはこちら≫


須磨には敦盛に関する物が数多く残され、今回紹介する石碑もその一つです。

■音楽碑

一の谷のいくさ破れ
  討たれし平家の公達あわれ
          暁寒き須磨の嵐に
             聞こえしはこれか 青葉の笛

小学校唱歌にもちろあげられている湖の詩は、先ほどご紹介した平敦盛と熊谷次郎直実のことを指しています、
笛の名手であった敦盛が戦の朝、吹いていた笛の音を直実が耳にし、あの美しい笛の音は敦盛のものだったのかと、殺しあわねばならないこの世の無常さを詠んだ歌です。

この石碑の隣にはこの歌のメロディーを奏でるキーボードが設置されています。

青葉の笛は、この石碑が立っている須磨寺に展示されており、宝物館を尋ねれば見ることも出来るので、是非須磨寺を訪れた際には石碑と青葉の笛を眺めてみてください。

須磨寺 源平の史跡、寺宝、文化財

今回は以前ご紹介した須磨寺(福祥寺)の面白い像や、源平の戦いの史跡についてご紹介しようと思います。




須磨寺には須磨で有名な源平の戦いの歴史の中の一つ、平敦盛についての史跡が多数存在します。

その一つが青葉の笛です。
この笛は、弘法大師が長安の青龍寺というお寺の竹で作ったと言われており、嵯峨天皇に献上され、皇室から平家、平敦盛の元へ渡ったと言われています。
遺愛の笛にはもうひとつ髙麗笛があり、比叡山学祐僧正の作だと言われています。

その他にも平敦盛の歴史の中でも有名である、熊谷直実と平敦盛の対峙している像や錦絵、一の谷合戦屏風など、源平の戦いに関する史跡が多数残されています。


また、源平の戦い以外にも須磨寺には色々な寺宝、文化財が展示してあります。有名な仁王像や国指定重要文化財である木造十一面観音立像普賢十羅刹女像、県指定重要有形文化財である鰐口木造不動明王立像等、歴史を感じるものばかりが展示されています。

それ以外に、境内には、面白い寺にしたいという住職の願いから、歴史を知らない人でも楽しめる面白いものがたくさん置かれています。
見ザル、言わザル、聞かザル、怒らザル、見てごザルの五猿は頭を撫でてあげると手が動くというからくりが。源平の庭の奥にはひっそりとぶじかえるというカエルの像があり、「ビックリしたい人は目玉を回してください、借金に困っている人は首を回して下さい。悩みが解消するかもしれません。」と書いてあります。
其れ以外にも触って楽しめる像がたくさんあり、境内を歩くだけでも面白い像に出会うことができますよ。

そんな広い須磨寺ですが、源平の戦いの史跡を残す此処にも勿論、多数の石碑が残されています。
次の記事から須磨寺に残されている石碑の数々を解説を入れながらご紹介していきますので、是非、お楽しみください。

須磨寺(福祥寺)

今回は須磨駅から北の方へ向かうと見えるお寺、須磨寺をご紹介します。
本堂、源平の庭、敦盛塚、護摩堂、蓮生院、神戸七福神霊場など、多数の施設から成る大きなお寺です。


正式名を上野山福祥寺と言い、兵庫区和田岬海中に出現した聖観世菩薩を安置するために淳和天皇の勅命で背山恵偈山北峰寺を建てたのが始まりと言われています。

今までブログにて紹介してきた平敦盛の笛や、平敦盛熊谷直実の像など、源平に関する史跡が多数あり「源平ゆかりの古刹」として全国的に知られ、今でも源平について興味のある方が多く訪れています。
また、須磨のことを残した正岡子規芭蕉などの句碑や歌碑も境内に多く存在しておりますので、これから紹介していきます。

その他にも須磨寺には仁王像七福神めぐり、撫でると反応する像や回せる像など、面白い物が多くあり歩いて回るだけでも楽しく、春は、秋は紅葉、夏には蓮の花ノウゼンヤズラなど、四季の季節を楽しむにもオススメです。
イベント行事も祈祷お彼岸はもちろん落語会骨董市源平戦士追悼など、多数開催していますので、是非一度お立ち寄りください。

須磨寺に奉納されている重宝や源平史跡に関してはまた詳しくご紹介させて頂きますので、お楽しみに。


現光寺 松尾芭蕉句碑

前回はあの有名な正岡子規の句碑をご紹介いたしました。

今回はもう一人、皆さんも一度はこの方の名前を聞いたことが有るでしょう。おくのほそ道で有名な松尾芭蕉の句碑をご紹介します。
芭蕉もまた源氏物語との関わりを求めてこの寺へ訪れました。


見渡せば
   ながむれば見れば
            須磨の秋



芭蕉は源氏物語の主人公、光源氏が、この地に侘び住まいした際にみた須磨の名月を見てみたくてこの地を訪れたそうです。
しかし芭蕉が訪れたのは春。光源氏が見たと言われている月は秋の月で見ることができなかった、無念さを詠んだ句です。
また、この句は三段切れの名句と言われています。
(三段切れとは、三句体の5・7・5がいずれも切れたかたちになり、ばらばらな印象を与えてしまう形式です。普通は禁じ手とされています)


作者:松尾芭蕉
江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人です。

源氏物語を追い求め、松尾芭蕉が訪れた現光寺。
是非一度脚を向けてみてください。

現光寺 正岡子規

以前ご紹介した源氏物語に深く関わりを持つ源氏寺、現在の現光寺にはみなさんも一度は聞いたことある現在の日本文学に大きな影響を与えた人の句碑、歌碑が残されています。



今回ご紹介する句碑は明治を代表する歌人、俳人、そして国語学研究科としても有名な正岡子規の句碑です。

結核を患っていた子規は日清戦争の取材の帰り、その船内で喀血して重体に陥り、神戸病院に入院。その後須磨保養院で療養していた時、須磨を題材にした多くの句を残しました。
その内の一つが現光寺に残されています。


読みさして
   月が出るなり
         須磨の巻



この句碑は正岡子規が源氏物語を読んだ際、酷く感嘆し、嵐のあと夜空に月が出てくる場面がみごとなまでに写実的であると思い詠んだ歌だと言われています。

作者:正岡子規
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行ない、日本の近代文学に多大な影響を及ぼしました。明治時代を代表する人です。


須磨に訪れた際には有名な源氏物語の欠片を残すこの寺に一度訪れてみては如何でしょうか?
子規の気持ちがわかるかもしれません。

次回はまた、皆さんも知っている方の句碑をご紹介いたします。お楽しみに。

現光寺

みなさんは源氏物語を御存知でしょうか?
一度は聞いたこと有るこの物語は、平安時代中期に成立したに京都を舞台にした長編小説です。
紫式部が作者だと言われているこの小説は実は須磨と大きな関わりがありました。

そんな源氏物語と須磨の関わりを残すお寺が、JR須磨駅から徒歩6分ほどの場所にあります。現在は現光寺と呼ばれているお寺です。
源氏物語の須磨の巻の舞台とも伝えられていることから「光源氏に住居跡」とも言われ、元は源氏寺とも呼ばれていました。境内の入口には源氏寺と彫られた石碑があります。
阪神大震災により、一度倒壊してしまいましたが、今は再建されきれいな姿を保っております。


次回は有名な物語、源氏物語の跡を残すお寺、現光寺に残されている句碑、歌碑をご紹介致します。
源氏物語の名残を強く残すこの場所に一度脚を向けてみては如何でしょうか?


<アクセス>
JR須磨駅から北東へ徒歩6分
山陽電鉄「須磨寺駅」から西へ徒歩約3分