近代・近現代の須磨

近代・近現代の須磨

須磨周辺は天下を統一した豊臣秀吉によって、近世の封建社会の基礎を固め、須磨周辺は豊臣家の直轄地となりました。
1615(元和元)年の大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、須磨は徳川家に属しましたが、多井畑だけは蒔田家領でした。
1617(元和3)年には、板宿・大手・東須磨・西須磨は尼崎藩領とされました。天領だった妙法寺・車・白川は1702(元禄15)年ごろ、旗本宮崎七郎右衛門の知行地となっていたようです。
やがて、1711(正徳元)年、幕府は西摂の尼崎藩領の多くを収公して天領とし、須磨区内の村々も、この時に天領となりました。これにより、多井畑村が備中浅尾藩の蒔田家領であるほかは、全村天領として大坂谷町代官の支配下に置かれました。

大政奉還ののち1868(明治元)年2月、須磨区域の村々は兵庫裁判所の支配を受けることになり、ついで同年5月にそれは兵庫県と改められました。多井畑は1871(明治4)年の廃藩置県で備中浅尾県となり、府県統合の進む中で1872(明治5)年2月に兵庫県に編入されました。
このころまで山間の村々は須磨の海辺の村々よりもむしろ、長坂越えや古道越えの山道によって兵庫方面の諸村と結びつきが深かったようです。
しかし、1890(明治23)年に板宿から妙法寺川沿いに播州三木に至る道路(県道神戸三木線)が開通し、妙法寺谷筋の諸村は、海岸地方の村々と直結されることになりました。こうして、今の須磨区域にあった八か村は東の西代村とともに初めて結束しました。
1889(明治22)年に町村制が施行され、西代を含む九か村はさらに東の池田村をもあわせて行政村としての須磨村を結成。このころから「須磨」は、今の須磨区の地域を指すことばとして一般に使われるようになりました。

1888(明治21)年には私設山陽鉄道(現在のJR西日本)が須磨駅を、同33年には鷹取工場を設置し、山陽鉄道が1906(明治39)年国有に移管されたときには鷹取駅も設けられました。1910(明治43)年には、兵庫電気軌道(のち宇治川電気鉄道部、現在の山陽電鉄)が開通して兵庫と須磨は直結され、区内に板宿・大手・須磨東口・月見山・須磨寺前・須磨・一の谷などの駅が設けられました。
須磨が神戸市と合併したのは1920(大正9)年4月1日のことです。


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