中世の須磨

中世の須磨中世の須磨

須磨の松岡城には、1334(建武元)年に始められた建武新政に不満を抱いた武士たちに推されて挙兵した足利尊氏が1351(観応2)年に御影の浜の戦いの際、大軍で統制がとれなくなり、須磨の松岡城に逃げ込んだという記録が残されています。

関西地方で関わった中世の歴史としては、まず源氏と平家が挙げられます。
十二世紀後半、強力な権力を握った平清盛は、1180(治承4)年6月2日に福原遷都を敢行しましたが、同年秋には東国で源義仲らの挙兵があり、11月に京都に都と返すことになりました。
翌年、清盛の死、源義仲の京都進撃により、平家は都を離れ西国へ向かいしました。
その後、都に入った義仲は貴族社会と対立。後白河法皇が鎌倉の頼朝に義仲追討を命じ、頼朝は弟の義経と範頼が義仲討伐のため京に入りました。一方で、源氏の分裂を知った平家方は、再び都を奪おうと、兵庫に上陸して大手の砦を生田の森に、搦手の砦を一の谷に設け、神戸を拠点と定めました。
義仲を滅ぼした義経たちは、その余勢をかって、平家軍に押し寄せ、1184(寿永3)年2月7日に一の谷の戦いが行われ、平家は敗れ去りました。


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