安徳天皇

ただ今放送中の大河ドラマにもなっている、平清盛には、孫が居ました。
生まれて生後間もないうちに立太子、3歳に天皇に即位した、安徳天皇です。

屋島の戦いで源氏に敗れた平氏は、1185年、最期の決戦である壇ノ浦の戦いでも敗北し、一門は滅亡の一途をたどることになります。

その壇ノ浦の戦いの際、最期を覚悟し、前回ご紹介した一ノ谷の戦いの前に持ち去っていた三種の神器の内の2つ、神爾と宝剣を身につけた祖母、二位尼(平時子)に抱き上げられ、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問うも二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じました。
安徳天皇は歴代最年少の数え年8歳で崩御した幼帝でした…



安徳宮
この須磨の土地には安徳天皇の冥福を祈るために祀られた宮、安徳宮があります。
源氏に追われた安徳天皇が平氏に奉じられて西下する途中、一の谷、宮のあるこの場所に一時内裏を置いたと伝えられています。

またこの他にも安徳天皇の怨霊を鎮めるために源頼朝の命により現在の山口県下関市に阿弥陀寺御影堂が建てられ、その阿弥陀寺には天皇怨霊鎮慰のため、木彫の等身大尊像が刻まれ、本堂の中心に厨子に収めて安置されています。その他にも下段に位置する拝殿に安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵した『安徳天皇縁起絵図』が飾られています。



現在安徳天皇は久留米水天宮(福岡県久留米市)の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになりました。


安徳天皇は上記のこと以外にも数々の伝説が残されています。
壇ノ浦で入水せず生き延びた説は九州四国地方を中心に全国で20ヶ所余りも伝承の地が残されています。
その他にも硫黄島の伝説に昭和期に安徳天皇の末裔を称し話題に登った長浜 豊彦なる人物が居た、実は女帝だったのではないか、と疑念を起こさせるような記述があるなどの伝説が残されています。


幼いながらも天皇を努め、8歳という命を壇ノ浦に散らしてしまった安徳天皇、
須磨に残る歴史の欠片の地に訪れてみてはいかがでしょうか?

<アクセス>
山陽電鉄「須磨浦公園駅」から北東へ徒歩約15分