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古代の須磨

古代の須磨古代の須磨

大化改新(645年)と律令の制定によって、神戸周辺は摂津国となり、平安時代に生田、神戸、宇治、八部、長田の郷(里)からなる八部郡となりました。須磨は長田郷の一部でした。
当時の須磨は地形上の問題もあり、あまり田畑も開かれず、浜辺に漁師の家が点在する寂しい地域でした。しかし、畿内への入口という条件から、交通の要地となり、駅家や関がおかれたといわれています。

交通事情としては、須磨の海岸線の一部は磯が荒かったため、山陽道は北へ迂回するルート(鉢伏山~多井畑~塩屋)となっていましたが、平安時代には、荒かった磯も土砂の堆積によって安全に通行できるようになり、山陽道が海岸を通るルートになりました。
平安時代、都からも遠くなく、風光明媚で温暖な気候の須磨は、貴族の隠棲の地とされており、「在原行平と松風・村雨の伝説」や「源氏物語」の舞台にもなりました。


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中世の須磨

中世の須磨中世の須磨

須磨の松岡城には、1334(建武元)年に始められた建武新政に不満を抱いた武士たちに推されて挙兵した足利尊氏が1351(観応2)年に御影の浜の戦いの際、大軍で統制がとれなくなり、須磨の松岡城に逃げ込んだという記録が残されています。

関西地方で関わった中世の歴史としては、まず源氏と平家が挙げられます。
十二世紀後半、強力な権力を握った平清盛は、1180(治承4)年6月2日に福原遷都を敢行しましたが、同年秋には東国で源義仲らの挙兵があり、11月に京都に都と返すことになりました。
翌年、清盛の死、源義仲の京都進撃により、平家は都を離れ西国へ向かいしました。
その後、都に入った義仲は貴族社会と対立。後白河法皇が鎌倉の頼朝に義仲追討を命じ、頼朝は弟の義経と範頼が義仲討伐のため京に入りました。一方で、源氏の分裂を知った平家方は、再び都を奪おうと、兵庫に上陸して大手の砦を生田の森に、搦手の砦を一の谷に設け、神戸を拠点と定めました。
義仲を滅ぼした義経たちは、その余勢をかって、平家軍に押し寄せ、1184(寿永3)年2月7日に一の谷の戦いが行われ、平家は敗れ去りました。


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近代・近現代の須磨

近代・近現代の須磨

須磨周辺は天下を統一した豊臣秀吉によって、近世の封建社会の基礎を固め、須磨周辺は豊臣家の直轄地となりました。
1615(元和元)年の大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、須磨は徳川家に属しましたが、多井畑だけは蒔田家領でした。
1617(元和3)年には、板宿・大手・東須磨・西須磨は尼崎藩領とされました。天領だった妙法寺・車・白川は1702(元禄15)年ごろ、旗本宮崎七郎右衛門の知行地となっていたようです。
やがて、1711(正徳元)年、幕府は西摂の尼崎藩領の多くを収公して天領とし、須磨区内の村々も、この時に天領となりました。これにより、多井畑村が備中浅尾藩の蒔田家領であるほかは、全村天領として大坂谷町代官の支配下に置かれました。

大政奉還ののち1868(明治元)年2月、須磨区域の村々は兵庫裁判所の支配を受けることになり、ついで同年5月にそれは兵庫県と改められました。多井畑は1871(明治4)年の廃藩置県で備中浅尾県となり、府県統合の進む中で1872(明治5)年2月に兵庫県に編入されました。
このころまで山間の村々は須磨の海辺の村々よりもむしろ、長坂越えや古道越えの山道によって兵庫方面の諸村と結びつきが深かったようです。
しかし、1890(明治23)年に板宿から妙法寺川沿いに播州三木に至る道路(県道神戸三木線)が開通し、妙法寺谷筋の諸村は、海岸地方の村々と直結されることになりました。こうして、今の須磨区域にあった八か村は東の西代村とともに初めて結束しました。
1889(明治22)年に町村制が施行され、西代を含む九か村はさらに東の池田村をもあわせて行政村としての須磨村を結成。このころから「須磨」は、今の須磨区の地域を指すことばとして一般に使われるようになりました。

1888(明治21)年には私設山陽鉄道(現在のJR西日本)が須磨駅を、同33年には鷹取工場を設置し、山陽鉄道が1906(明治39)年国有に移管されたときには鷹取駅も設けられました。1910(明治43)年には、兵庫電気軌道(のち宇治川電気鉄道部、現在の山陽電鉄)が開通して兵庫と須磨は直結され、区内に板宿・大手・須磨東口・月見山・須磨寺前・須磨・一の谷などの駅が設けられました。
須磨が神戸市と合併したのは1920(大正9)年4月1日のことです。


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